※ かなりの長文です。注意して読んで下さい。

宇田川 榕菴(うだがわ ようあん)

「宇田川榕菴は大垣藩医江沢養樹の長男として生まれ14歳の時に、津山藩(現岡山県
津山市)の藩医で蘭学者の宇田川玄真の養子となり玄真より多くを学び知識を得て以
降医学者・蘭学者として後世に名を残します。
そして玄真との共著で数々の化学、医学書などの出版に携ります。これらの出版に際
し、日本語のまだ存在しなかった学術用語に新しい造語を作って翻訳しました。酸素、
水素、窒素、炭素、白金といった元素名や元素、酸化、還元、溶解、分析といった化
学用語、細胞、属といった生物学用語は宇田川榕菴が造った造語であると言われてい
ます。
また、自然科学分野に留まらずオランダ語の度量衡に使用する単位についての解説
『西洋度量考』やオランダの歴史、地理を解説した『和蘭志略稿』、コーヒーについ
ての紹介『哥非乙説』(こひいせつ)なども記しています。
玄真に随行し江戸に参府した際、オランダ商館長と面談する機会を得た時に初めて
コーヒーを口にしたそうです。なお、coffeeの日本語表記である「珈琲」は、この宇
田川榕菴が考案し「蘭和対訳辞典」で使用したのが最初であると言われています。」
※注(上記の内容は2010年頃(宇田川榕菴が大垣藩出身と間違った解釈をした時代)の
ウィキペディアの記載文で現在は内容が変わっています。)

解説
上記の大垣藩医江沢養樹は、初代と二代の二人が存在します。
大垣藩医・江沢家は榕菴の義祖父、江沢養樹(初代)が上総国(千葉県)から江戸に
出てきて医学を学んでいるとき大垣藩主の戸田家に江戸詰めの藩医として召抱えられ
たことにより始まります。
榕菴の実父、中島道義は越後国蒲原郡見付(新潟県阿賀野市・旧安田町)の漢方医中
島理斎の息子でその江戸詰めの江沢家に初代江澤養樹の養嗣子に入り二代目江沢養樹
となります。
榕菴は二代目江沢養樹の長男として江戸日本橋の呉服町で生まれ、宇田川家に養子入
りするまで呉服町で育っています。また、大垣藩医江沢養樹は初代・二代共江戸詰め
だったため、榕菴は生まれてから養子に出るまでの江沢姓の時代は江戸で過ごしてい
たようで大垣を一度も訪ねたことがありません。
また榕菴自身も文政10(1827)年に書いた「親類書」に、「松平越後守家来 高50石
 生国武蔵 宇田川榕菴」として、出身は武蔵(現在の東京・埼玉・神奈川の一部)
だとしています。
さらに榕菴の墓所は養子に入った岡山県津山市にあります。
ちなみに過去帳にも大垣藩に「宇田川」の姓を名乗る人物はいないので、宇田川榕菴
はほぼ大垣とは縁もゆかりも無い人物と言うことになります。
記述で「大垣藩出身」とか「大垣で生まれた」や「珈琲の漢字を作ったのは岐阜県人」
というのは間違いなので削除した方が良いと思います。

追伸
最近の研究では、大阪大学の田野村忠温氏の論文(音訳語「珈琲」の歴史)によると、
宇田川榕菴が「珈琲」という漢字を作ったという説は約80年ほど前から通説や俗説と
して言われていて、調査により宇田川榕菴がはじめて記した文献より前に中国の古書の
なかに「咖啡」の記述があり、それを見て「珈琲」と記したのではないかという説もあ
ります。

間違った解釈が約10年ほど前に世間に広められ、未だに消えずに今日に至っています。
大垣で珈琲のお店を出している以上、世間から嘘の情報を無くす為に努力していきたい
と思います。
もしまだ「大垣の人が珈琲の漢字を作った。」なんて言ってる人がいたら、この長文を
最後まで読んだ方は「それは嘘です。」と言ってあげて下さい。歴史は変えられません。
事実を教えてあげて下さい。よろしくお願いします。

読んで頂きありがとうございました。       珈琲幸房多香 店主  髙木